「喜び」
ローマ14:17「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」
この聖句凄くないですか!!!!
多くのクリスチャンに「神の国はなんですか?」って聞いたら、多分ほとんどの人は「喜び」と言う言葉を使って答えないと思います。
ちょっと面白いから喜びが出てくる聖句を見てみました。結構ありましたよ!
新改訳聖書には「喜び」という言葉が747回使われています!!
その中の一部をまとめてみました。
私たちは喜びながら○○をしなさいと言われています:
詩篇100:2 「喜びをもって主に仕えよ」
ローマ12:8 「あわれむ人は喜んでそれをしなさい」
第二コリ9:7 「・・・喜んで与える・・・」
第一ペテロ5:2 「喜びをもってそれをしなさい。」
ヘブル13:17 「・・・喜んでそのことをし・・・」
第一テモテ6:18 「喜んで分け与える」
ピリピ1:4 「いつも喜びをもって祈り」
第二コリント1:24 「喜びのために働く」
何もしてなくても、いつも喜んでいなさいと言われています:
第一テサ5:16 「いつも喜んでいなさい。」
第二コリント13:11「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。」
ローマ15:10 「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」
ローマ12:12 「望みを抱いて喜び「なさい」
「いつも」ってことは状況と関係なく喜ぶことができるはずです:
ヘブル12:2 「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、・・十字架を忍び」
第二コリント6:10 「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、」
ヘブル10:34 「自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」
第一ペテロ4:13 「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。
それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」
第一ペテロ1:6 「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。→いまは、しばらくの間、
さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが ・・・」
ヤコブ1:2 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」
第一テサロニケ1:6 「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」
コロサイ1:24 「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」
第二コリント12:9 「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう 」
第二コリント8:2 「激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、
あふれ出て、その惜しみなく施す富 となったのです。」
第二コリント7:4 「どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」
ローマ5:3 「患難さえも喜んでいます。」
使徒5:41 「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びな がら、議会から出て行った。」
ルカ6:22-23 「人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、
あなたがたは幸いです。 23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。」
じゃ苦しみの中でも何を喜ぶのかというと⇒主を喜ぶ
詩篇37:4 「主をおのれの喜びとせよ。」
ピリピ3:1 「主にあって喜びなさい。」
ピリピ4:4 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
神様を礼拝するために造られた私たちはなんで主を喜ぶことがそんなに大事なのでしょうか?
ヒント!:ヤコブ5:13 「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」
ヒント!:黙示録19:7 「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。」
主にある喜びと賛美/礼拝は離すことの出来ないセットなのです!
耐えない喜びは信者のもの:
第一ペテロ1:8 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、
ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」
その主にある喜びは1人で満足できるものではありません。共に分かち合うものです:
ピレモン1:7 「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、
聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」
ピリピ2:17-18 「私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」
ピリピ2:2 「 18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んください。私の喜びが満たされるように、
あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」
第二コリント7:13 「この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。
テトスの心が、あなたがたすべて によって安らぎを与えられたからです。」
第二コリント2:3 「わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである 」
第一コリント12:26 「もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」
喜びは二つ目の御霊の実です:
ガラテヤ5:22 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、・・・」
私が牧師の仕事をしている一番の理由⇒ 主にある喜びを分かち合うために
ピリピ1:25 「私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、
あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」
第二コリント1:24 「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です」
イエス様もそうだったとお思います。自分の喜びが聞く人に注がれるように話していました:
ヨハネ17:13 「わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、
世にあってこれらのことを話しているのです。」
ヨハネ15:11 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、
あなたがたの喜びが満たされるためです。」
たどりついたのがこれです↓
賛美や礼拝はケーキの上のイチゴのように、
主にある喜びを完成させるものです。
イチゴだけじゃケーキにはならないし、
イチゴがのってないケーキはなんか物足りない。
そしてケーキは誰かと一緒に食べた方がずっとおいしい!!
日々、主を喜ぶことが本当の礼拝だと思います。
なら私は主にある喜びをいつも求めながら生きていきます。
主にしかない、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び!
共にに「主にある喜びケーキ」を食べませんか?笑
この聖句凄くないですか!!!!
多くのクリスチャンに「神の国はなんですか?」って聞いたら、多分ほとんどの人は「喜び」と言う言葉を使って答えないと思います。
ちょっと面白いから喜びが出てくる聖句を見てみました。結構ありましたよ!
新改訳聖書には「喜び」という言葉が747回使われています!!
その中の一部をまとめてみました。
私たちは喜びながら○○をしなさいと言われています:
詩篇100:2 「喜びをもって主に仕えよ」
ローマ12:8 「あわれむ人は喜んでそれをしなさい」
第二コリ9:7 「・・・喜んで与える・・・」
第一ペテロ5:2 「喜びをもってそれをしなさい。」
ヘブル13:17 「・・・喜んでそのことをし・・・」
第一テモテ6:18 「喜んで分け与える」
ピリピ1:4 「いつも喜びをもって祈り」
第二コリント1:24 「喜びのために働く」
何もしてなくても、いつも喜んでいなさいと言われています:
第一テサ5:16 「いつも喜んでいなさい。」
第二コリント13:11「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。」
ローマ15:10 「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」
ローマ12:12 「望みを抱いて喜び「なさい」
「いつも」ってことは状況と関係なく喜ぶことができるはずです:
ヘブル12:2 「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、・・十字架を忍び」
第二コリント6:10 「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、」
ヘブル10:34 「自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」
第一ペテロ4:13 「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。
それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」
第一ペテロ1:6 「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。→いまは、しばらくの間、
さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが ・・・」
ヤコブ1:2 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」
第一テサロニケ1:6 「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」
コロサイ1:24 「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」
第二コリント12:9 「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう 」
第二コリント8:2 「激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、
あふれ出て、その惜しみなく施す富 となったのです。」
第二コリント7:4 「どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」
ローマ5:3 「患難さえも喜んでいます。」
使徒5:41 「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びな がら、議会から出て行った。」
ルカ6:22-23 「人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、
あなたがたは幸いです。 23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。」
じゃ苦しみの中でも何を喜ぶのかというと⇒主を喜ぶ
詩篇37:4 「主をおのれの喜びとせよ。」
ピリピ3:1 「主にあって喜びなさい。」
ピリピ4:4 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
神様を礼拝するために造られた私たちはなんで主を喜ぶことがそんなに大事なのでしょうか?
ヒント!:ヤコブ5:13 「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」
ヒント!:黙示録19:7 「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。」
主にある喜びと賛美/礼拝は離すことの出来ないセットなのです!
耐えない喜びは信者のもの:
第一ペテロ1:8 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、
ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」
その主にある喜びは1人で満足できるものではありません。共に分かち合うものです:
ピレモン1:7 「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、
聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」
ピリピ2:17-18 「私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」
ピリピ2:2 「 18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んください。私の喜びが満たされるように、
あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」
第二コリント7:13 「この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。
テトスの心が、あなたがたすべて によって安らぎを与えられたからです。」
第二コリント2:3 「わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである 」
第一コリント12:26 「もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」
喜びは二つ目の御霊の実です:
ガラテヤ5:22 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、・・・」
私が牧師の仕事をしている一番の理由⇒ 主にある喜びを分かち合うために
ピリピ1:25 「私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、
あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」
第二コリント1:24 「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です」
イエス様もそうだったとお思います。自分の喜びが聞く人に注がれるように話していました:
ヨハネ17:13 「わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、
世にあってこれらのことを話しているのです。」
ヨハネ15:11 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、
あなたがたの喜びが満たされるためです。」
たどりついたのがこれです↓
賛美や礼拝はケーキの上のイチゴのように、
主にある喜びを完成させるものです。
イチゴだけじゃケーキにはならないし、
イチゴがのってないケーキはなんか物足りない。
そしてケーキは誰かと一緒に食べた方がずっとおいしい!!
日々、主を喜ぶことが本当の礼拝だと思います。
なら私は主にある喜びをいつも求めながら生きていきます。
主にしかない、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び!
共にに「主にある喜びケーキ」を食べませんか?笑